ちょっとした自分のこと (スピリチュアルも含めて)

スピリチュアル界隈では、激動の2年間の最終章に入ってるみたいですね。

(もちろんこの先、まだ色々あるとは思いますが)

 

個人的に今年の春辺りだったか、年内に自分のカルマを解消したいと思っていた訳ですが、ある時(4月末辺りに)肘を打ってしまい、かなり誤算というか狂ったなという感じがしています。

 

病院と治療院に行きましたが、取り立てて問題はないという感じになりました。

(わかってもらえないんですよねぇ…)

 

1ヶ所打ち込むと他に影響するので、その蓄積でなんだかデコボコ人間みたいになってしまいました。

 

肘がやっとほぼ違和感なく使えるようになったのはつい最近(10月辺り?)で、約半年、色々つらい状態が続いてたという感じです。

 

治ったかな?と思っても、肘をつくと違和感やうまく力が入って行かない感じなどがありました。

 

首の方にも打ち込みが入った感じで、まさにガタガタっぽい身体でした。

アスリートの怪我のしんどさを素人なりに経験したみたいな感じでした(苦笑

 

これからもまだ調整は続けていかないといけません。

 

 

話しが脱線してしまいましたが、最近スピリチュアル的な話しにウンザリしてる自分が居たりします。

 

もともと僕が思うスピリチュアルというのは、心身の調和のようなもので、浮いた話しを聞いたりイメージワーク等はエンタメに近い印象だったり、実際的な部分に入っていけるようなものではないと感じるようになっています。

 

確かに、あるレベルまで行った人にはそれらが有効に働くのかな?というのは思います。

 

ということは、僕は目覚めない人間なのかもしれません(笑

 

 

振り返ったとき、僕のもともとの最初の始まりが、自身の問題解決のために、心よりも先に身体を選んだというのは、あながち間違ってはいなかったというように思います。

 

心や意識よりも先に、身体にフォーカスすべきだというのが個人的な考えです。

 

ただこれまでに、心という何かフワッとしたものが重要視される期間が長く続いた影響で、僕自身もそういうことに振り回され、逆に心身の乱れを引き起こしてしまったというのは、かなり残念に思っています。

 

だからこそこれからは、身体にしろ心にしろ、実質的なアプローチをとっていくことに重きを置きたいと思っています。

 

 

しかしながら、スピリチュアルが好きか嫌いかと言われれば、嫌いではないという感じです。

ただ、実際的な面との繋がりがいまいち薄く感じられるというのは思います。

 

今年もあと2ヶ月を切った‥

 

 

 

 

 

 

 

主張が弱い人の意見は通らない!?

今日はコミュニケーション講座に出ました。

 

先生、スタッフ、参加者で10数名くらい。

 

2グループに別れて、グループの中の人が好きな色、食べ物、行きたい県などを当てるゲームみたいなことをやりました。

(まるでオーラ診断、その派生みたいな‥)

 

最後に、そのグループの中で行きたい都道府県を1つ決めることになりました。

 

もし旅行に行くなら何処に行くか?という感じ。

 

決めるときは多数決で決めないというルールがあったのですが、結局最後は半ば投げやりにある都道府県に決めることに…

 

それぞれの意見を聞くと、絞られはするけど決まらない訳です。

 

もっと厄介(というのもあれですが)なのは、主張が弱い人は聞いてもハッキリとした自分の意見を言わなかったりもします。

 

どちらのグループも1人がどうにも煮え切らず、決まらないということがあったようです。

 

ただ、決め終わったときどちらのグループも、満足度は高かったようです。

 

 

何故だと思いますか?

 

 

それは煮え切らない中でも、考えてもらえていた、意見を汲み取ろうとしてもらえていた、それらを感じてくれており、そこにある程度の満足感があったようです。

(ま、これは先生の解説なので、実際に本人がどう感じていたかはわかりませんが)

 

何かを決めるときに、必ずしも自分の思うようには決まらないことがありますが、納得できるかどうかというのは、その過程にあるのだと改めて思いました。

 

終わった後の振り返りで先生に指摘されてわかりました。

どちらのグループも煮え切らなかった人の満足は高かったよと。

(半ば投げやりに決めてしまって残念な結果になったと、勝手に思い込んでたりしてました‥)

人生最大の転機!?

今日はまた、SSTに行きました。

 

8時半に家を出ようと思っていたのですが、案の定間に合わず、8時50分くらいに家を出る形になりました。

 

車で10分ちょいくらいなので、そんなに早く出る必要はないのですが、少し早めに出て海の方を歩いてから行きたかったのです。

(余裕があるときはそうしています)

 

こんな感じの所↓
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8時50分くらいに出て、2ヶ所で止まって少し頭や身体を覚ますイメージで体操したりしました。

 

その途中のどの時点でかはわからないけれど、なんだか自分が思う不安や嫌だという感覚は当てにならないんじゃないか?みたいなことを考え始めていました‥

 

‥何だったんでしょうねー?

どっからそんなことが出てきたのかはわかりませんが、あれ?自分が不安だとか嫌だと感じることって、あんまり信用できないかも?みたいなことを感じたのです。

 

僕はすごく不安や緊張が強い人間で、その解決のために色んなことを試して来ました。

(自分がものすごく緊張や不安が強いと感じ始めたのが中学2年くらい? そこに至るまでの過程っぽいものはありましたが‥)

 

これは何を試行錯誤しても解決できませんでしたが、今朝の感覚はそれとは些か違ったものでした。

 

「不安や嫌だという感覚は当てにならない」

 

これがやんわりと浮かんできたという感じです。

 

むしろ「不安や嫌だという方向の方が正しいんじゃないか?」

というようなことも思いました。

 

もちろん、これを知ったから気付いたから直ぐさま何がどうなるというものでもありませんが、恐れに対する恐れ?がかなり軽減した気がします。

 

その後SSTではそのような話しもすることができ、またある先生からは肩にそっと手を置かれ、良い方向に進んでるよと喜ばしいお言葉を頂きました。

(感謝です)

 

こういうことは理屈としては知っていましたが、今日のような感覚が訪れたことはありませんでした。

(理屈としてもあまり理解できてなかったような…笑)

 

何かの恐れを感じたときは、その感覚が当てになるかどうか、そっとその隙間を覗き見るようにしてみたいと思っています。

 

 

昨日から使用のエッセンス

 

・マンウントフジ浄化外用

 

・ヒマラヤンフラワー チャクラキット

(ダウントゥーアース、エクスタシー)

・マウントフジフラワー

(フジザクラ)

 

上記エッセンスの影響もあったのかもしれません。

 

瞑想会に参加

今日はヒーラボというオンラインサロンの瞑想会にZoom参加してみました。

僕を含めて計6人でした。

ヒーラボ運営者のまっちんさんが、軽く瞑想のやり方を説明された後、10分くらい皆で瞑想を行うという感じです。

僕は目を閉じてたり、少し開けたりしながら瞑想っぽいことをしていました。

昔、アレクサンダーテクニークのグループレッスンをやっていた時の光景を思い出したりして、なんだか懐かしい感じがしました。

また、目を閉じていると少し気持ち良くなったりしますが、すぐ思考が沸いてきたり、身体がほぐれてくる感じがするとモゾモゾしたくなったりして、なかなか集中することは出来ませんでした。

後半は少し眠くなってきた感じでした笑

ただ10分くらいとはいえ、終えた後に動きを確認してみると、瞑想する前より身体が軽く稼働域も大きくなっていました。


その後は雑談のようなものがありましたが、僕は顔も声も伏せていたので、見聞きしているだけでした。

僕ひとりが顔や声を伏せている状況だったので、他の人はやりにくかったかもしれません苦笑
(瞑想中はまっちんさん以外伏せていましたがその後はオープンに)

肩身の狭い状況だなぁと思いながらいましたが、他の人がどう感じようが僕の手の内にはない訳で(アドラー心理学的には課題の分離というやつ)、逆にそれは他の人にとって僕の感じ方をコントロールすることは出来ないというようなことを、全てが終わった後に振り返りながら思ったことでした。

とはいえ、コミュニケーションというのは様々な要素が絡んでいるので、私は私、人は人、みたいにきっちり別れている訳でもないということは思います。

正直に言えば、Zoomで顔も声も伏せているというのは、ちょっと失礼なことではないか?というのは思いました。


あー、岸田さんが新総裁になった。
(テレビ見ながら)

やっぱりねー‥

叱られないということのキツさ

今朝方ラジオを聞いていると、こんなことで叱られましたコーナーのようなものをやっていました。

 

そのとき僕は、あれ?、僕って叱られたことないかもと思ったのです。

 

いや叱られたことはあります、ありますけど、あまり身にならない叱られ方というか…

 

どういうことかと言うと、相手が言葉を選んでる訳です。

こんなことを言ったら傷付く、またはいけないというルールがあるとか。

 

親にはそういうルールは僕が小さい頃は比較的少なかったですが、社会に出るとあまり叱られない社会が出来てたという印象でした。

 

代わりに、なんだか態度で怒りを表すみたいな感じとか、言われない怖さのようなものを感じたりして、見えない幽霊がさまよってるというか、我慢や鬱憤のエネルギーが強かったように思います。

 

または言葉にするにしても、オブラートに包まれてる奥のものを感じたり、本人が言えない怒りの方を感じることの方が多かったように思います。

 

いわば自分の中に溜め込む訳ですね。

 

そうするとどうなるかといえば、僕の場合ですが自分も苦しくなる訳です。

相手が苦しいのがわかるのでそれが苦しく、なので自分で自分を責める以外無くなるみたいな、内在化スパイラルという感じです。

 

これだったら、まだまともに叱られた方がマシというか、まともに叱られないキツさがキツイというようなことが起こっていました。

 

最近は大分マシな世の中になって来つつあるようにも思いますが、なんと言いますか、もう少しまともに言うべきことを伝えた方が、お互いの為になるという部分が、根強く残っている感じがします。

 

表面的には優しそうな顔をするのがうまくなってる社会って、怖い顔して実は優しい社会の方がマシなような気がしています。

 

なにか違うなぁ…

 

ルールや規則が先行してて、それに人間がいまいち着いていけてないという表現が、僕の中では一番適切かもしれません。

 

(とはいえ、バランスが取れてる人がいるのもまた事実としてあるとは思います)

 

日本人ってやっぱり我慢強いんじゃないかなぁと、個人的には思います。

 

コミュニケーションの広がり

今日はSSTにまた行きました。

 

SSTとは、社会生活を送る上で欠かせないコミュニケーションスキルを磨くというものです。

 

磨くという目的もあれば、改めて見直す、またはもっと深く知っていくという、幾つかの複合的な要素を持つところもある思います。

 

単に上手く話せるといういうのは、分かりやすいけれども表層的な部分だと思います。

 

それにしても、上手く話せるって何だろうか?

論理的に道筋が立っていてわかりやすいということなのか。

あるいは、穏やかで心地よい感触を受けるものを良いコミュニケーションと呼ぶのだろうか。

 

最近は特に、論理的に道筋が立っていて、その精度が高いことが、上手くコミュニケーションが出来るという条件の上位になっているように思います。

その次は声色かなぁ?と個人的には思います。

表情や動きが見える場合はそれらも含まれますが、声色って結構物語っているものが大きいように思います。

 

落ち着きとか安心感というやつですかね。

 

 

今日行って思ったことは、誰しもその人なりのコミュニケーションをしているということです。

話しの内容を追っていると、あぁそうだねとか、わかるわかるという感じによくなりますが、何故か話しの内容が頭に入って来にくい場合があり、それっていうのは必ずしも道筋が立っていないからとは限らないようにも思います。

別のコミュニケーション手段に入っているのか?

それとも自分の意識が違うところに行ってたり、興味関心の選別が働いているのか。

 

なんだか、ある特定のコミュニケーションの型があり、そこから外れると上手く話せてないと感じられるようにも思います。

 

一方、話しとその人が一致してるというような感じの場合があり、それっていうのはその人自身が統合されているように思えました。

相手とその人の融合とも言えるかもしれません。

 

様々なコミュニケーションの要素がある中で、何かを説明する話しもあれば、感覚的なことを話す場合もあり、後者の場合は使われる言語が曖昧になり、それ以外の何かで表す場合もあるかもしれませんね。

 

脚をしきりに動かしながら話す人がいたり、背中がグニャっと曲がっているんだけど口だけ動いてて話しの内容はしっかりしてるような人もいました。

ただそういう人も、常にそうだという訳でもなく、相手や日時が違えば、違うようにコミュニケーションするのかもしれません。

 

このように、人は色んなコミュニケーションのやり方をしますけど、社会的合理性からいえば論理的に道筋を立てて話すことが上手い人は上手いと言えるかもしれないですが、例えそうではなくても下手なら下手なりにそれはとっても素直なことだなぁと僕は感じたのです。

 

場をわきまえるということも必要に応じてしなければいけませんが、なんと言いますか、その人そのものは常に何らかの形でコミュニケーション(表現)をしており、それを下手だから聞かないとかよくわからないから下手だと切り捨ててしまう人は、いないとは思いますが、とはいえ社会的には置いて行かざるを得ない場面があるのもまた事実だと思います。

 

しかしながら、その人が下手だから間違っているとか正常にさせないといけないかと言えば、必ずしもそうとは限らないし、ある程度社会に適応していきたい、または適応させていきたいと思った場合、もしかしたら社会と個人の両方の歩み寄りが必要なのかもしれない?とも思いました。

 

何故なら、コミュニケーションのスタンダードな型のようなものが、あるコミュニケーションを排除しうるからです。

(大げさかもしれませんが)

 

その人がそこに存在しているということは、その人なりのコミュニケーション(表現)をしているということを強く思いました。

人生の波に乗る

 

今日は「人生の波に乗る方法・イメージワーク」の対談をZoomで視聴しました。

 

思ったより参加者は少なくて、しかも自分は午前中に撮った写真を載せて視聴してたけど、他の方は👤で視聴されてたので、最初は自分のイタさに耐える時間がしばらく続きました小笑

 

ヒーラボというオンラインサロンに僕は加入しているのですが、そこのオーナーさんとメンバーさんの2人が対談されるという形でした。

 

オーナーさんは、まっちんさん、メンバーさんはぴっぽーさん、このお二方でした。

 

2時間ほど対談を視聴させて頂きましたが、うーん2時間は結構長かったかも‥汗という感じはしましたが、後半30分辺りは良かったかなと思いました。

 

人生をより良いものにして行きたいと大抵の人は思うと思いますが、対談テーマである人生の波に乗るというのは、こんな風に言うとぶち壊しみたいになりますが、一律な答えというか、こうしたら良いという明確なものはないというのが、個人的には対談を視聴して改めて思ったことかもしれません。

 

言い換えればそれは、個人的な要素が多分に入ってくるもので、得意なことや苦手なこと、やり易いこととやりにくいこと、興味関心の違いなど、挙げ出すとキリがないくらい様々な要素がある中で、少しでも皆に共通する要素を見付けてみようじゃないかというのが、対談の趣旨でもあったように思います。

 

人生がうまく回ってるように見える人でも、報われない時間というのが各人長さの違いとしてもあるし、程度の違いとしてもあるということも改めて思いました。

しかも報われる保障もない、ガーン

まるでそれは、観覧車の下から上を見上げることに似ているような気もします。

 

対談の中で出てきた言葉の中で印象に残ったものが幾つかあって、1つはどんな形でも良いということです。

(具体的な言葉は忘れてしまいました汗)

 

波に乗るもよし、乗らぬもよし、あれもよしこれもよし、まぁ言ったら別に何でも良いというようなことです。

これは頭でわかってるつもりでも、やっぱりこっちの方が良いでしょ?っていうのが人間の性としてあるように僕は感じてて、それで行くと個人的には生きてて良かった!みたいに思える時もあるし、やっぱり辛いものは辛いという、現実的なギャップのようなところに想いを馳せたりします。

 

誰も痛いのは嫌だと思うし、なるべくなら嫌な思いをしたくはないものですよね。

 

そのときに、誰かに頼るということが必要というのが対談の中でもありましたが、この頼るということがなかなかの難関だと感じるのは僕だけでしょうか?

知らないけど頼り慣れてないと難しく感じるか、もしくはそれは一概に悪いとは限らないということもあるかもしれません。

例えば子供が自分の力だけで問題を解決しようという、弱さを見せようとしない踏ん張りみたいな感じって、やっぱりある訳じゃないですか。

 

それを見る人は、早く頼ってとか相談してとか思う訳ですが、いざ自分がそういう状態のときなかなかそう出来ない。

そこを助けてあげようか?とも言い難い。

なんて人間って健気で奥深いんですかねぇ。

 

全くの想像で行ってもOKというのであれば、あーちょっと手伝ってぇ、わかったいいよー、たったこれだけです。

 

それだけあなたはあなたなりに頑張って来てるということではないでしょうか。

それは必ずしもあなたに非があるということではないのではないかなぁと、僕は思ったりするのです。