専業息子

今日はSSTに行きました。

 

SSTというのは、公の意味ではより良いコミュニケーション能力を培う、という目的で行われると思います。

 

僕が通っている病院にあるSSTというのは、数名が集まって輪のように座り、真ん中で一対一で対話するという形で行われます。

 

真ん中に2つ椅子があり、参加者の誰かとお話する訳ですが、患者側が今日お話するテーマや誰と話すかを選択できるようになっています。

 

大体10数名くらいが集まり、その中には医師、作業療法士、医療系学生などが参加します。

(少なくとも自分の通ってるところはそうです)

 

患者として通う方というのは、何らかの問題というか課題を抱えておられる訳ですが、どちらかと言えば、抱えている内容を話せる場所がないから通うという部分が大きいように個人的には感じてます。

 

話しをして直接的に何かが解決することはあまりないように思いますが、各々自分が話すことや、他の方の話しを聞いて自分なりにエッセンスを得て、自分の生活の中にそれを生かしていくのではないか?

というように感じています。

 

ある部分ではカウンセリングや一対一の対話では起こりにくい良さがSSTにはあるように感じています。

何故なら他の参加者の話しや素振り、周りの様子などを見聞き出来るからです。

 

大抵の場合は患者と作業療法士、または医師という形になります。

患者同士で会話することも可能です。

 

3つのルールというのがあり、

①人と比べるのではなく、前回の自分と比べてどうか?ということにフォーカスする

 

②全員参加、他の人が話している時もきちんと耳を傾ける

 

③そこで話された内容を他のところで口外しない

 

そんな感じだったと思います。

(うろ覚えの部分あり笑)

 

目的は、社会生活を送る上で欠かせない、コミュニケーション能力を培うことではあるけども、言葉だけではなく、身振り手振りを交えて話すなど、いわば様々なことを見聞きし感じ取って自分のものにして行ってくださいね、みたいな部分があります。

 

定義されている目的とルールはありますが、杓子定規にそれに当てはめるようなものではありません。

 

 

今回の印象

モチベーションの話しが出てきたのですが、一度止まったりつまづいてしまうと、社会は進んでいる訳で、置いてきぼりにされていく感は否めないという部分はそれぞれ発生するというのはあるように思います。

 

そこからどのように自分の満足できる、または納得できる方向に持っていけるか?

 

それは精神的(身体的)なものもあれば、日常生活的なこと、社会的なこと、それらの区分けは曖昧ではあってもある程度繋がりをもったものだと思われます。

 

個人的または環境的に、見えやすいハンディもあれば、見えにくいハンディもある訳で、それらがなかなか理解または許容されにくいが故の困難さはあるかもしれないし、これは今日感じた主観的なものですが、皆それぞれのエネルギーはあっても生かす場所(または生かし方)に困ってる感がもしかしたらあるかもしれないと感じたように思います。

 

その鬱積がある種、病気の形をとり得るのかなぁ?

いきなりスピリチュアルぽっくなったので終わりです笑

 

癒さないスピリチュアル

たまに忘れた頃に思いだす

それは地平線のようなもの

 

周りが問題だらけのように見えても、何もする必要がないみたいな。

そのまますくすくと、あるべき状態に移り変わるのを共に体験していく一個人であるというのを、ぽっかりと見ている自分がそこにいる。

 

全然何もしないというのとは違うけど、それはちゃんと流れているのでたまに自覚できればそれで良いみたいな。

 

そんな地平線のようなものが見えた気がした今日でした。

(まだ今日は半分ある)

死ぬ練習

ぶっそうなタイトルですが、ほんとに死ぬ訳ではありません。

 

オリンピックが終わりましたが、僕は昔陸上を少しやっていたのもあり、山縣選手を応援していました。

 

ただ、結果はそれほど望ましいものではなかったように思います。

 

それに対する感想は置いといて、なんとなく何故山縣選手は勝てなかったんだろう?というのをふと考えていたときに、外国人選手との違いが思い当たりました。

 

そうしている内に、環境が違うというのが頭に浮かんできて、どのように違うかといえば、生きるか死ぬかみたいな環境があるか無いかというようなことが頭に浮かんできました。

 

日本で生きていれば、一般的には平々凡々に過ごせるので、良くも悪くもそれなりにしかなりようが少ないということを思いました。

 

その時に、一旦死ななければならないみたいな、ほんとに死ぬ訳ではないけども、死ぬかもしれないという本能的な部分を刺激する必要があるのかもしれない、そんな風に思ったのです。

 

生きるか死ぬか、ほんとには多分死なないけど、死ぬかもしれない!という危機感以上に何かを発動させる方法はないのではないかと、そのようなアプローチ法を考え出しました。

 

やり方はまた別の記事として書こうと思いますが、とりあえず、一旦死ななければならないみたいな取り組みが必要だと思ったのです。

自分でできるアレクサンダーワーク2

前回はボディースキャンのようなワークを紹介しました。

 

今回は、全体を感じるワークです。

 

※どちらかといえば、こちらから入る方が良いかもしれません

 

僕がグループレッスンを受けてた頃は、大抵ボディースキャンからこの全体を感じるワークに移る感じでしたが、こちらをメインにしても良いと思います。

 

ではさっそく行きます。

 

・まず姿勢は仰向けで膝を立てます。

・そして自分の身体全体を感じます。

 

この全体というのは、身体の前後左右、上下、自分が全体ってこんな感じ(範囲)かなぁというのを捉えるという感じです。

 

捉えるというカチッとしたもの、ここからここまでという感じというよりも、自分が思う全体をアバウトに感じるという感じです。

 

※ハッキリとここからここまでという感じがない、取り留めのない全体という感じです

 

そして全体を感じたら次は、

・周りから入ってくる音をキャッチします。

 

この音をキャッチするというのは、拾いに行くというよりも、自然にキャッチするに任せるという感じです。

 

音に意識を取られて全体を忘れそうになったら、また全体を意識します。

 

そして次は、

・感じるままに任せる。

 

気温や部屋の感じ、音や見えるもの、それら様々なものをキャッチするに任せるという感じです。

コントロールしないとも言えます。

 

※思考などに意識が向いていったときには、目を瞑ってたら開けるとか、どこかに視線を向けてそれを見るとかいう風に、思考の方に流れて行ったらそれをストップという感じです。

 

(それだけ人って、思考だらけだったりするんだろうなぁ?と思います。)

 

一応これで終わりですが、終わったら少し休憩して(約2、3分)、ボディースキャンの場合もそうですが、軽く腕と脚を動かして動きを確かめるというのがあります。

 

少し休憩したら、

・横になったまま、腕をゆっくり上に持ち上げていく(片方ずつ)

・横になったまま、膝を立てたまま、膝を軽く左右に動かしてみる

 

※このときに、腕はゆっくりと、膝はゆっくりと軽くというのが大事になります。

 

最初にもこの確認が入ります。

そして一連のワークの後、最後また確認するという感じです。

 

何のためにそれをしているのかといえば、意識の広がりや軽さが、結果として身体にどのような変化をもたらすか?という実験です。

 

これらマインドフルネス的なことは、やればやるほどその質や精度は上がると考えてもらえれば良いかと思います。

 

ただ、頑張ってそれをやるとか、その質や精度を上げるためにやるというよりも、何度も何度も実験を繰り返す過程そのものの中に、発見や面白味をどれだけ感じていくことが出来るか?というようなことがキーになって来ます。

 

そうでなければ、何かしらの"結果"を求める行為になってしまいます。

例えばリラックスするとか、脱力するとか。

 

それもダメではありませんが、それらは"結果"であって、このワークの目的は、どうなるかな?という実験のプロセスそのものにあるという感じなのです。

 

 

 

自分で出来るアレクサンダーワーク(ポイントなど)

前の記事では、ボディースキャンのようなワークを紹介しました。

 

今回はポイントや気を付ける点などを挙げておきます。

 

・軽く意識を向けるだけでいい

感じようとか強く意識を向けると、うまくフィードバックが入って来にくいということが起こりがちなので、ソフトにやります。

ただそこに意識を向けるという感じです。

 

・こうであるはず、みたいな意識のもっていき方をしない

どんな感じかなと意識を向ける訳で、こうであるはずというのが先に来ると、うまくフィードバックが入って来にくくなります。

 

・目を開けてやるか瞑ってやるか

目を瞑ると集中しやいですが、他のことに意識が流れていってしまったり、過度にある部分に意識が集中してしまいやすいことがあります。

逆に、開けていると意識が外に分散して行きやすいという面もあります。

適宜、目は開けたり瞑ったりしながらやるという感じが良いと思います。

 

・努力感や緊張感を感じたら休む

集中だとか一生懸命にやると、意識が強くなりすぎてあまり良いワークにならなかったりします。

ワーク中疲れてしまわないように、中断したり、少し待ったり、休み休みやったり、自分なりに調節しながら進めてください。

 

・硬直感が強いと他の部分を感じることが難しくなる

固まってる感じや違和感などが強い部分があると、その部分に強く意識が引きずられ、他の部分を感じることが難しくなる場合があります。

その場合は外に意識を向けることをお勧めします。

例えば、天井や部屋の空間に意識を向けるとか、少し離れた所に意識を向けることによって、硬直している部分に強く向いている意識が分散する感じになります。

身体全体に漠然と意識を向けることによって、分散させることも出来ます。

いっそ、今は止めて別のことをするというのもありです。

 

最後に

キーワードは、情報はただそこにあるです。

 

とりあえず、そのような感じです。

自分で出来るアレクサンダーワーク

今回は、僕がアレクサンダーテクニークのレッスンを受けていたとき、グループレッスンといって先生に誘導してもらいながら行っていたワークを紹介します。

 

自立訓練法やマインドフルネスに近いものですが、目的がもしかしたら違うかもしれません。

上記のものではリラクゼーションや瞑想といったことが目的になりがちですが、アレクサンダーワークでは身体に意識を向けること自体に目的があるという感じです。

 

何故なら普段身体というものをどのように意識(認識)しているか省みる習慣がないからというのがその理由です。

 

運動や体操などでも身体に意識を向けている形にはなると思いますが、もっと静的で繊細なそれという感じです。

 

身体の各部分の繋がりを取り戻すという意味合いもあります。

それは身体への認識を再確認していく作業ともいえます。

 

 

それでは早速実践編へ

↓↓↓

 

仰向けに寝て、膝を立てます。

 

しばらく休みます(または待ちます)。

 

落ち着いてきたと感じたら始めて行きます。

 

はい

それでは頭に意識を向けてみてください

意識を向けるだけでいいです

頭はどこにあるかなぁという感じ

後頭部、前頭部とあります

 

次は耳です

両耳に意識を向けていきます

耳の裏側の方が感じ易いかもしれません

 

次は額です

額はどんな感じかなぁというのに意識を向けてみてください

 

次は目です

目は、目の周りの骨に意識を向けます

上側と下側があります、触ってみてもいいです

 

次は鼻です

鼻骨に意識を向けてみてください

鼻はどの辺りまで高さがあるか触ってみてもいいです

 

次は頬骨です

頬骨に意識を向けてみてください

頬骨は、出来れば触ってどの辺りにあるか確かめてみてもいいです

 

次は顎です

顎は耳の前の蝶番から、顎の先の方まで感じていってみてください

プラス、耳から下へなぞるとカクッと尖っている骨を触って確かめてみるのもいいです

 

次は口腔内です

口腔内は舌で上の歯の裏側、下の歯の裏側をなぞって確かめてみてください

そして上顎、口腔内の上の方を舌でなぞって広がりを確かめます

口腔内は思っているより奥まで広がっています

その空間に意識を向けてみます

 

次は背骨です

尾底骨から上方向に感じていってください

背骨は感じにくいかもしれません

両耳の間辺りまで続いてます

 

次は鎖骨です

鎖骨は胸の上部に左右に広がっています

それを触って確かめてみてください

 

次は肩甲骨です

肩甲骨は背中側の左右に羽みたいにあります

肩甲骨の方に意識を向けてみてください

 

次は腕です

腕は上腕と前腕があります

上腕は肘の方へ向けて感じていってみてください

そして前腕は手首から肘の方へ向けて感じていってみてください

そして両手に意識を向けます

 

次は肋骨です

肋骨の広がりを感じてみてください

触って確かめてみてもいいです

下は遊離肋骨まであります

 

次は骨盤です

腸骨の辺りを感じていきます

その辺りを、どんな感じかなぁと意識を向ける感じでいいです

 

次はお尻です

お尻に意識を向けていきます

一個として感じていたりしますが、お尻は左右に別れています

 

次は股関節です

股関節はどの辺りかなぁ、どんな感じかなぁというのに意識を向けていきます

股関節は感じにくいかもしれません

探ってみてください

 

次は太ももです

太ももは付け根から膝の方へ感じていきます

 

次は膝です

膝に意識を向けます

少し高めに感じるといいです

膝の裏側も感じてみてください

 

次はくるぶしです

足の左右に骨がポコっと出ているので、そこに意識を向けてみます

 

次はかかとです

かかとに意識を向けます

 

そして足です

かかとから足先へ感じていきます

 

 

しばらく休みます

 

 

そうしたら、さっきまでは身体の各部を感じていきましたが、今度は身体全体に意識を向けてみます

 

漠然とこれが身体全体かなぁーという感じでいいです。

しばらく身体全体を感じてみてください

 

お疲れさまでした👏👏👏✨

 

これでひとまず、自分の身体全体をチェックしたことになります。

 

意識を向ける中で、感じにくかった箇所、硬直感などがあっても、それをそのまま意識で捉えるという感じでいいです。

 

意識を向けるだけで、そこをどうにかしようとしなくて大丈夫です。

身体の各部が認識(認知)されていけば、ちょっとずつ身体の各部の状態を正確に捉え始め、自然に調整されていくと考えてもらえれば良いかと思います。

 

※継続や根気がいったりしますが、やっていく内に慣れてきたり(スピードが上がっていく等)、もしかしたら意外な発見があったりするかもしれません。

 

折に触れてやってみてください。

 

お読み頂き、ありがとうございました❇

 

 

 

 

 

 

 

小さな存在 あとがき

人間には強い人と弱い人がいて、やっぱりフィジカル的にも強い人が勝ってしまいます。

 

メンタルやスキル、才能や努力といったものでうまく行く場合もあればうまく行かない場合もあります。

 

それはその人の責任というよりも、適切なやり方を教えてくれる人がいない、または少ないという面が大きいかもしれません。

 

育つ過程でそれをうまく学び取れた人達はある意味ラッキーと言えるかもしれません。

それは、良い出会いであったり環境という意味です。

 

ただそれらは、様々な要因で阻害されて来たという経緯があります。

 

個人的な経験でいえば、大切な友達がことごとく去って行ったり、子供なりの反応(困ってるサイン)を出しても、あまりうまく対応してくれなかったり。

 

人のせいにする訳ではありませんが、事実としてそういうことがあったりします。

 

全てのことは自分が選んでいる、または全てのことは自己責任と言われたりしますが、ある視点から見るとそうかもしれない、またはあるレベルまで達するとそういうことがわかるということがあるのかもしれませんが、個人的には現時点ではそれをそのまま鵜呑みには出来ません。

 

とはいえ、時代が急激に変化してきて、昔のような課題、昔のような問題の起こり方はかなり少なくなったのかぁ?という印象もあります。

環境が保護的になった、または安全性が増したというか。

 

一番気になるのは、表現は適切ではないかもしれませんが、それぞれの時代の犠牲者というのはやはり一定数出てしまった背景があって、それが現在ではある程度改善されたから良かったとしても、その犠牲者達はどうなるの?というようなことです。

 

本人がどうにか出来る場合もあれば、難しいケースもあると思います。

 

そこをザックリと、はい、全ては自分の責任ですよと大きくなって今更言われても、ウソでしょ!みたいな感じというか、いやいや、それはちょっと違うんじゃないの?という感は否めないような気がします。

 

年齢は関係ないと言われたりしますが、やはりある程度現実的には関係します。

そこをうまく見ていってもらわないと、これどうすんのよ?という思いが、片隅にあり続けるように思われるのです。

 

※全ての事柄というか、思ってることを言語化することは、かなりの労力がいることや限界があります

 

自分が出来ることをやっていきたいという月並みなことに帰結しますが、あわよくばこれを読まれた方が、何か自分の力をそういう方面にいくらかでも使って頂ければ、望外の喜びです。

 

Thank you so much