コミュニケーションの広がり

今日はSSTにまた行きました。

 

SSTとは、社会生活を送る上で欠かせないコミュニケーションスキルを磨くというものです。

 

磨くという目的もあれば、改めて見直す、またはもっと深く知っていくという、幾つかの複合的な要素を持つところもある思います。

 

単に上手く話せるといういうのは、分かりやすいけれども表層的な部分だと思います。

 

それにしても、上手く話せるって何だろうか?

論理的に道筋が立っていてわかりやすいということなのか。

あるいは、穏やかで心地よい感触を受けるものを良いコミュニケーションと呼ぶのだろうか。

 

最近は特に、論理的に道筋が立っていて、その精度が高いことが、上手くコミュニケーションが出来るという条件の上位になっているように思います。

その次は声色かなぁ?と個人的には思います。

表情や動きが見える場合はそれらも含まれますが、声色って結構物語っているものが大きいように思います。

 

落ち着きとか安心感というやつですかね。

 

 

今日行って思ったことは、誰しもその人なりのコミュニケーションをしているということです。

話しの内容を追っていると、あぁそうだねとか、わかるわかるという感じによくなりますが、何故か話しの内容が頭に入って来にくい場合があり、それっていうのは必ずしも道筋が立っていないからとは限らないようにも思います。

別のコミュニケーション手段に入っているのか?

それとも自分の意識が違うところに行ってたり、興味関心の選別が働いているのか。

 

なんだか、ある特定のコミュニケーションの型があり、そこから外れると上手く話せてないと感じられるようにも思います。

 

一方、話しとその人が一致してるというような感じの場合があり、それっていうのはその人自身が統合されているように思えました。

相手とその人の融合とも言えるかもしれません。

 

様々なコミュニケーションの要素がある中で、何かを説明する話しもあれば、感覚的なことを話す場合もあり、後者の場合は使われる言語が曖昧になり、それ以外の何かで表す場合もあるかもしれませんね。

 

脚をしきりに動かしながら話す人がいたり、背中がグニャっと曲がっているんだけど口だけ動いてて話しの内容はしっかりしてるような人もいました。

ただそういう人も、常にそうだという訳でもなく、相手や日時が違えば、違うようにコミュニケーションするのかもしれません。

 

このように、人は色んなコミュニケーションのやり方をしますけど、社会的合理性からいえば論理的に道筋を立てて話すことが上手い人は上手いと言えるかもしれないですが、例えそうではなくても下手なら下手なりにそれはとっても素直なことだなぁと僕は感じたのです。

 

場をわきまえるということも必要に応じてしなければいけませんが、なんと言いますか、その人そのものは常に何らかの形でコミュニケーション(表現)をしており、それを下手だから聞かないとかよくわからないから下手だと切り捨ててしまう人は、いないとは思いますが、とはいえ社会的には置いて行かざるを得ない場面があるのもまた事実だと思います。

 

しかしながら、その人が下手だから間違っているとか正常にさせないといけないかと言えば、必ずしもそうとは限らないし、ある程度社会に適応していきたい、または適応させていきたいと思った場合、もしかしたら社会と個人の両方の歩み寄りが必要なのかもしれない?とも思いました。

 

何故なら、コミュニケーションのスタンダードな型のようなものが、あるコミュニケーションを排除しうるからです。

(大げさかもしれませんが)

 

その人がそこに存在しているということは、その人なりのコミュニケーション(表現)をしているということを強く思いました。